法人化の判断
不動産法人化を検討すべき損益分岐点
榎本美乃里税理士事務所
「不動産所得がいくらになったら法人化すべきか」は、オーナーの方から最も多くいただくご質問です。
結論から申し上げると、税率だけを見れば課税所得900万円前後が一つの目安になります。ただし、それはあくまで入口の数字です。設立・維持コスト、社会保険料、そして将来の相続まで含めると、損益分岐点はご家族の状況によって前後します。この記事では、その判断の順序を整理します。
損益分岐点の出発点は「税率の差」
個人の不動産所得には、所得税と住民税がかかります。所得税は超過累進課税ですので、所得が増えるほど税率が上がり、住民税10%と合わせた最高税率は55%に達します。給与所得など他の所得がある方は、不動産所得がその上に積み上がるため、税率はさらに上がりやすくなります。
一方、法人にかかる税金は、法人税・地方法人税・法人住民税・法人事業税を合わせた実効税率でおおむね23〜34%の範囲におさまります。所得が増えても、個人のように青天井で上がることはありません。この「上がり続ける税率」と「頭打ちになる税率」の差が、法人化を検討する最初の理由です。
| 課税所得 | 個人(所得税+住民税) | 法人(実効税率の目安) |
|---|---|---|
| 330万円超〜695万円以下 | 30% | 約25% |
| 695万円超〜900万円以下 | 33% | 約25% |
| 900万円超〜1,800万円以下 | 43% | 約34% |
| 1,800万円超〜4,000万円以下 | 50% | 約34% |
※ 税率は概算です。実際の負担は各種控除、地方税の超過課税、資本金の規模などによって変わります。
目安とされる課税所得900万円の意味
よく「900万円を超えたら法人化」と言われるのは、この表の3段目で個人の税率が43%へ跳ね上がり、法人の実効税率との差が10ポイント近くまで開くためです。所得が大きくなるほど、この差の絶対額も大きくなります。
ただし、900万円は「検討を始める水準」であって、「超えたら必ず得をする水準」ではありません。ここから、法人を持つことで新たに発生するコストを差し引く必要があります。
「不動産収入が900万円を超えたら」ではありません。判断の基準になるのは収入ではなく、必要経費と各種控除を差し引いた後の課税所得です。借入金の利息や減価償却が大きい物件では、収入が2,000万円あっても課税所得は数百万円ということも珍しくありません。
法人化にかかるコストを差し引く
法人化は、設立して終わりではありません。毎年発生する固定的なコストがあり、これを税率差による軽減額が上回って初めて「得をする」状態になります。
設立時にかかるもの
- 登録免許税・定款認証などの設立費用(株式会社でおおむね25万円前後)
- 不動産を法人に移す際の登録免許税・不動産取得税
- 物件に借入が残っている場合、金融機関との条件変更協議
毎年かかるもの
- 法人住民税の均等割(赤字でも年7万円程度)
- 法人の決算・申告にかかる税理士報酬
- 役員報酬を出す場合の社会保険料(会社負担分と個人負担分の合計で報酬の約30%)
とくに影響が大きいのは社会保険料です。税率差だけを見て法人化し、役員報酬を高く設定した結果、税金は減ったが社会保険料の増加でトータルの手残りが減った、という例は実際にあります。損益分岐点は、税金だけでなく社会保険料を含めて計算しなければ意味がありません。
所得分散という、もう一つの効果
法人化の効果は、税率差そのものよりも所得を分散できることにあります。個人所有では、家賃収入はすべてオーナー一人の所得です。法人であれば、ご家族を役員とし、それぞれに役員報酬を支払うことで所得を分けられます。
累進課税は所得を分けるほど有利に働きます。加えて、役員報酬には給与所得控除が適用されるため、同じ金額でも課税される所得は小さくなります。この二つが重なるため、実務上は所得分散の余地があるご家庭ほど、損益分岐点は下がります。
配偶者やお子様に業務の実態があり、報酬を支払える状況であれば、課税所得600万円台から検討に値するケースもあります。逆に、分散する相手がいない単身のオーナーでは、900万円を超えていても法人化のメリットが薄いことがあります。
相続を含めると分岐点は前倒しになる
個人で不動産を持ち続けると、税引後の家賃収入はオーナー個人の預貯金として積み上がります。その現金は、将来そのまま相続財産となり、相続税の課税対象になります。つまり所得税を払いながら、同時に相続財産を増やし続けている状態です。
法人が物件を保有していれば、家賃収入は法人に入り、役員報酬という形でご家族へ分散されます。個人一人に資産が集中していく流れを止められる点は、相続の観点では税率差以上に大きな意味を持ちます。
相続まで含めて考えると、法人化の判断は「今年いくら節税できるか」ではなく、「あと10年、20年で資産がどう積み上がるか」という問いになります。この視点を入れると、損益分岐点は数字だけで見るより手前に来ることがほとんどです。
数字より先に確認すべき3つのこと
法人化を具体的に検討する前に、次の3点を確認してください。ここが整理されていないまま設立だけを進めると、後から戻すのに大きなコストがかかります。
- 物件を法人へ移す方法/建物だけを移すのか、土地も含めるのか。移転コストと将来の効果を比較します。
- 借入の状況/抵当権が設定されている場合、金融機関の承諾が必要です。事前協議なしには進められません。
- 誰を役員にするか/所得分散の効果も、相続時の株式の扱いも、ここで決まります。設立後の変更は簡単ではありません。
法人化は、節税の手段であると同時に、次の世代へ資産を渡すための器をつくる作業でもあります。目安の数字はあくまで入口として、ご自身の物件・ご家族・将来の計画に当てはめて判断されることをおすすめします。